夢から覚めた。そしてまた夢を観る
【明晰夢】
睡眠中にみる夢のうち、自分で夢であると自覚しながら見ている夢のことである。明晰夢の経験者はしばしば、夢の状況を自分の思い通りに変化させられると語っている。
夢であることがわかると夢はコントロールできる。実際、シュチュエーションをいきなり変えることはできなかったけど、ある程度コントロールできた。
この現実も夢だったら?
夢だと知ったら、現実はコントロールしやすくなるんじゃないか。
人は理解できないものを信じる、神、宇宙人、陰謀論。同じようにこの現実も実在していると信じている。
この現実は思い込みの結果。
誰が思い込んでいるのか、どういう仕組みで思い込んでいるのか。
言い換えると誰が夢を見てるのか。
違う夢は見れないのか?
なんで現実は思い通りにならないのか?
いや実際思い通りになっている。
思いの裏に隠れた無意識の思いこそが
思い込みの材料となって、この現実を立ち上げている。
つまり、無意識の思いこそが、この現実。
これが気づかないから人生思い通りにならない、そして気づいたとしても、この無意識の思いを変えられないから、人生思い通りならずに苦しむ。
考えたくないことを考え、思いたくないことわや思い、不幸を感じ、それを紛らす為に、何かに必ず依存して、いっとき幸せを得る。
その為の出会い。乾いた自分を潤す為の出会いしか人間していない。
変えられないから、変わらないから、
自分は変えられないから、たとえ幸運にも無意識の思いに気づいても。
これがカルマ。死んでも繰り返される。
情報データは宇宙の膜に記憶されるから。
神は死んだ。
ニーチェはいった。
キリスト教を信じていた時代に、神はいないといった。
この世界は錯覚だ。
この体も、今見てる絵も。
感じている感覚も。
もちろん思考感情も。
無意識の思いも。
だからこそ、夢錯覚だからこそ
チャレンジして変えていくんだよ。
夢だから、賞味期限つきの夢だから。
ここはね挑戦。
シンプルにね。
何がしたいの?何をしゃべりたいの?
どんな人生にしたいの?
その問いに真っ直ぐ向き合い続けること。
伝えたいこと?
ブログを初めていろいろ書いてきたけど、伝えたいことってなんだろうね。
このブログ、ブログじゃなくてもいいんだ。youtubeの方が見る側は見やすいと思うし、どうせなら動画の方が今後はいいと思う。
その時に自分は何かを発信していく訳だけど、なんだろう。
発信したいことなんだろう。
ポイントは発信したいこと、やりたいこと、表現したいこと、が大事だと思う。
なぜならば、個人の無限大の表現が誰かの為になるから、
作りこまれた表現や、作品も素晴らしいけど、
等身大というか、そのまんまの誰かに共感共有したいし、繋がりたいし、
信頼感を得ると思う。
こうやって、アウトプットしながら、自分がどういう人間かを知りたいんだ。
ただそれだけなんだよね、きっと。
誰の役に立たなくてもいい、誰の期待にも答えるつもりもない。
そんなあざとい花にはなりたくない。
結果、美しいんだよね、花は。
いや美しいように咲いて昆虫を誘き寄せている疑惑もある。
論理が矛盾した、、
花も人間が認識すると美しいだけど、ミツバチが認識したら美味しそうだし、
誰がどう見るかの世界だからな、
だから、これが売れるとか儲かるととか好かれるとかで咲く花は
しんどそうね。
なんか気持ちわかるよ、周りに好かれるのしんどいよな、
全員からは好かれないだろうし。
つまり好きに咲くのが一番良さそうね。
焦らず見つけていこう。チャレンジしてこう。
あなただけの咲きかた。
精神的直立🚶♂️
あかちゃんは母親に依存してでしか生命活動の維持、つまり生きることができない。
あかちゃんは生存欲求の塊である。
皆人間は、はじめあかちゃんだったころ、
母親のサポートで、ハイハイができて、立てて、喋れるようになってきた。
社会の教育システムのサポートとともに、
幼稚園、小学校、中学校と学んできたし、
法と秩序のもと安心して生命を維持して、精神活動を行なってきた。
どうだろうか?
サポートだらけじゃないか、
母親、学校教育、社会システム、
そんな生まれる前からあった存在や教育やルールで私という人間ができている。
これは紛れもない事実ではないか。
ここからが問題。
では、もともとあったもののサポートをフルにうけ、つまり環境的に依存して、生存するために生きてきたあかちゃん。
生存する為の、生命活動は行ってきたが、
オリジナルの精神活動は行ってきたのか?
行ったのか?行えるのか?
つまり、作られた環境に基づいた、考え、感情、アイディア、クリエイティブは生み出せるが、環境に依存しない全く何もない0からの
精神活動(=自由意志)は人間行えるのだろうか?
答えはNO、ずっと何かに依存して、依存していることにも気づかずにハイハイしながら死んでいく赤ちゃんだよ、人間は。
自分自身が生存するために、幸せを感じるために、何だって利用する、赤ちゃん。
では答えがyesになる道はないのか?
あるよ。
今まで自分が生きる為に、依存してきたもの、全てを手放すことだよ。
親、学校と教育、社会システム。
全て虚構であることを理解すること。
そして、その時はじめて、0からの本来の精神活動を行うことができる、何も依存することなく。精神的独立を果たすことができる。
精神的に立って歩くことができる
🚶♀️
もうやめよう、何かに依存するの、何のせいにするの、生殺与奪の権を放棄することを。
もうやめよう。ハイハイ、バブバブ。
悔しくない?
飼い慣らされた犬だよね。生きる為に依存し続けて。自分で自分の思い考え感情すらコントロール出来ずに、暴走して生きていくの。
違和感が大事だよ。
私このままでいいのかな?とか
ウイルス1つでパニックになって制御できない人間ってなんやねん。って冷静に思うよね。
精神的ハイハイから精神的直立へ。
危機=crisis
生殺与奪の権を他人に握らせるな!!
生殺与奪=生かしたり殺したり、与えたり奪ったり、すなわち、どうしようと自分の思うままであること。
本当にその通りだと思う。
今はやっている漫画、アニメ
「危機感」だと思う。
危機は今よりも状況が悪くなるなど、ネガティブなイメージで使われる事が多いが、
英語のクライシスでは、決定的段階、重大局面、(運命の)分かれ目、(病の)峠、と規定されている。
平和ボケしている日本に対して必要なのは、潜在的なニーズは危機感、緊張感、生死をかけた戦い、覚悟。
それを無意識で日本人が欲しているからこういった緊張感のあるアニメが流行って位いるのだと思う。
お金、物質、個人主義、快楽主義に染まっている世界、日本、ぬるま湯、他人事、誰かやってくれよ、
誰か社会を良くしてくれよ、会社を良くしてくれよって、頼ってばかり。
他力本願、責任をおいたくない、人任せ、生殺与奪の権を周りに委ねている、
国民病。
若くなればなるほど、未来への諦め、絶望が大きいから、若い人ほど生殺与奪の権を放棄している。
つまり危機感を感じで得たい事は、決断をする状況である。
人は危機的状況下でしか、決断できない、平和な暮らしの中で決断は下せない。
覚悟を持って生きることはできない。
危機的状況、危機を認識することで、日本は決断しようとしている。
まるで巣を飛び立つ雛鳥のように。
決断には連続2段階あって、
1、卵の殻を破る、啐啄童子。の決断。自分と自分の宇宙は実在しない、全て虚構の世界である事を知ること。
2、虚構の世界とわかって今までの日常を生きるのか、虚構の世界を新たに作り出すのか。(大空に自由に羽ばたくのか。)
今ここ決断するために、今ここ危機感を持つ事が非常に大切。
今この時代は危機(重大局面、運命の分かれ目)であると同時に、
もっと細かい物差しで今を観た時に、今ここが重大局面、運命の分かれ目。これは紛れもない事実。
これを認識できるか、出来ないかで、生き方、死に方の質が大きく変わってくる。
危機感を認識できずに、つまり決断できずに一生を終えるのか。平和ボケのまま、他人に生殺与奪の権を預け、家畜として生きるのか。
(※当の本人は家畜であることを認めない、プライドが傷つくから)
危機感を感じて、決断を繰り返して人生を生きるのか。決断し続ける人生を選ぶのか。
本当今ここが重大局面、運命の分かれ目であることを認識していく事、その時間軸に対する頻度が細かくなっていくことこそが
生殺与奪の権を持ち続け、人生の主導権、人間の尊厳を持ち続ける生き方なんだなと深く感じている。
生殺与奪の権を他人に握らせるな
生殺与奪の権を他人に握らせるな!!
マンガ鬼滅の刃で
冨岡が丹次郎に言った言葉。
細かく解析すると、
上部構造の支配下の下部構造のポジションをみすみすとるな。
王に仕える奴隷になるな。
環境に支配されるな。
人間として生きる上での最も重要な権利を他人に渡すな。(自分が何者であるかを決めること)
自分が何者であるかを自分で決めろ。
無限の可能性、人間の尊厳を放棄するな。
これを冨岡は伝えていたのだと思う。
1話目で丹次郎の物語が始まった。
もし仮に、あの場面で冨岡が丹次郎に殺さないでとお願いされたまま、ねずこを殺さなかったら、丹次郎が鬼を倒していく未来はなかったように思う。
あの場面で丹次郎は生殺与奪の権を得た。
あの一瞬で。
自分の力でねずこを人間に戻すんだという決断。
この世界は全て自分が決める世界。
生まれてから基本的に全て決められてきたが、本当は全て決める世界。
全て決める決断。
そんな鬼滅の刃の物語の始まりであり、終わりに繋がる1番かっこいいシーンだったと思う。
アイヒィールプリティ
すごく良い映画だったな。
元気になれる!
思い込みの映画。
主人公はブスでデブな女性。
見た目がいけてないから、自分に自信が持てない。
そんなある日ジムで自転車に乗ってトレーニングをしていたら、自転車から落ちて頭を強打。
その時から、頭がおかしくなった。
自分は美人だと思い込むようになった。
そしたら自信が持てて男や仕事や友達にも積極的に接することできるようになった。
そしたら、彼氏もできて、仕事でも大手化粧品会社の普通美人がやるような受付係をやって、社長に気に入られて、一緒に仕事をするようになった。
うまくいった、全てが。
全てが変わった。
自分で自分を承認できる。
自分で自分を認める。
自分に自信を持つ。
それが自然体、本来あるべき人間の姿。
生まれてきた瞬間はなんの差別も、比較もなかったのに。人はみな自分を認められない、コンプレックスを認めることができない。
見た目も、中身もね。
これを認めることができたとき、人生が輝き出す。
そんなシンプルで、パワフルで未来の自分に希望を持てる映画だった。
自分を承認。
これさえできたらね。